聴覚障害の授業を受けてとても心に残ったことがありました。
聴覚障害者は、苦労して努力して健常者と同じくらいベラベラ綺麗な発音で話せるようになったとしても、それはそれで問題なのかもしれない、ということ。
周囲に「障害がある」と気づいてもらえないんですよね。いくらある程度話せるようになっても本人がろう者であることは変わりません。健常者よりも危険因子を背負って生きていることも事実です。自分の身を守ること・ろう者としてのidentityを失わない為には、ほんの少し、
「あれ、この人の話し方ちょっと・・・。もしかして耳が悪いのかな?」
と思われる要素を残しておいたほうがいいのかもしれません。話せるようになった今だからこそ言える贅沢な悩みなんでしょうけれど。
難聴の子を持つお母さんがそんなことを言っていたとか。
聴覚障害者は、苦労して努力して健常者と同じくらいベラベラ綺麗な発音で話せるようになったとしても、それはそれで問題なのかもしれない、ということ。
周囲に「障害がある」と気づいてもらえないんですよね。いくらある程度話せるようになっても本人がろう者であることは変わりません。健常者よりも危険因子を背負って生きていることも事実です。自分の身を守ること・ろう者としてのidentityを失わない為には、ほんの少し、
「あれ、この人の話し方ちょっと・・・。もしかして耳が悪いのかな?」
と思われる要素を残しておいたほうがいいのかもしれません。話せるようになった今だからこそ言える贅沢な悩みなんでしょうけれど。
難聴の子を持つお母さんがそんなことを言っていたとか。
それと関連して。
先生がアメリカで日系人の女性と仕事をした時のお話。
その人は生まれも育ちもアメリカ。英語は完璧に母国語として操れる。
先生が「私の英語はどう頑張ってもジャパニーズイングリッシュだから。」ともらしたところ
「そのままでいいじゃないですか。あえて日本語らしさが残ったままのほうがいいんですよ。」
そう言われたらしいです。
その時先生は思ったそうです。
彼女はずっとアメリカで育ってきたからアメリカ文化がしみこんでいる。英語はベラベラに話せる。言語も生活文化もアメリカ。でも自分の顔が日本人のような顔で、日系人であるという事実は変わらない。
そういうちぐはぐな状況にあった彼女は、identity crisis みたいなものと向き合わなければいけなかったんじゃないかと。
先生は、どう頑張っても自分は日本人であることは変わりないし、無理してネイティブ並の発音をたとえ手に入れたとしても、それは本当に価値のあることなのか?と思ったようです。
自分は日本人。だから英語にいわゆるJapanese English が交じっててもいいじゃないか。伝わることが大事なのだから。
・・・そうか。
私はずっと、海外で生活したことがないもんだから、読み書き聞き取りはある程度できても「話す」能力が致命的に劣っていることにコンプレックスを抱きまくっていました。
ネイティブのように話せたらいいなあ。
何度もそんなことを思いました。うまく話せるようになりたくて、発音を綺麗にしたくて、英会話のプライベートレッスンを受けたこともありました。もちろん、他の部分の指導にも意味がありましたけど。
そこでは全く私の発音は直されませんでした。
言い回しとか表現の仕方とかは直されましたけど。自然にコミュニケーションを取れるような練習ばかりで、ネイティブっぽく聞こえるような発音練習なんてものは一切しませんでした。
あの時、先生は私の発音がめちゃくちゃ日本語っぽい英語であることなんて全く気にしていませんでした。自分の言いたいことを英語で言えればそれでよし。一生懸命話して伝わればそれでよし。そんな考え方でした。発音云々気にしていたのは私だけでした。
自分の中で無理な願望を無駄に抱き続けてきたような気がしました。
私は多分もう、「ネイティブのような流暢さを手に入れたい」とは思わないでしょう。
でも、言いたいことを伝えたいという願望は抱き続けると思います。ヘタクソな英語でも何でも。
先生がアメリカで日系人の女性と仕事をした時のお話。
その人は生まれも育ちもアメリカ。英語は完璧に母国語として操れる。
先生が「私の英語はどう頑張ってもジャパニーズイングリッシュだから。」ともらしたところ
「そのままでいいじゃないですか。あえて日本語らしさが残ったままのほうがいいんですよ。」
そう言われたらしいです。
その時先生は思ったそうです。
彼女はずっとアメリカで育ってきたからアメリカ文化がしみこんでいる。英語はベラベラに話せる。言語も生活文化もアメリカ。でも自分の顔が日本人のような顔で、日系人であるという事実は変わらない。
そういうちぐはぐな状況にあった彼女は、identity crisis みたいなものと向き合わなければいけなかったんじゃないかと。
先生は、どう頑張っても自分は日本人であることは変わりないし、無理してネイティブ並の発音をたとえ手に入れたとしても、それは本当に価値のあることなのか?と思ったようです。
自分は日本人。だから英語にいわゆるJapanese English が交じっててもいいじゃないか。伝わることが大事なのだから。
・・・そうか。
私はずっと、海外で生活したことがないもんだから、読み書き聞き取りはある程度できても「話す」能力が致命的に劣っていることにコンプレックスを抱きまくっていました。
ネイティブのように話せたらいいなあ。
何度もそんなことを思いました。うまく話せるようになりたくて、発音を綺麗にしたくて、英会話のプライベートレッスンを受けたこともありました。もちろん、他の部分の指導にも意味がありましたけど。
そこでは全く私の発音は直されませんでした。
言い回しとか表現の仕方とかは直されましたけど。自然にコミュニケーションを取れるような練習ばかりで、ネイティブっぽく聞こえるような発音練習なんてものは一切しませんでした。
あの時、先生は私の発音がめちゃくちゃ日本語っぽい英語であることなんて全く気にしていませんでした。自分の言いたいことを英語で言えればそれでよし。一生懸命話して伝わればそれでよし。そんな考え方でした。発音云々気にしていたのは私だけでした。
自分の中で無理な願望を無駄に抱き続けてきたような気がしました。
私は多分もう、「ネイティブのような流暢さを手に入れたい」とは思わないでしょう。
でも、言いたいことを伝えたいという願望は抱き続けると思います。ヘタクソな英語でも何でも。
スポンサーサイト
infomation
-
お報せ・更新情報など
| TOP |